歴史上の人が感動する行動ですが、豊臣秀吉は織田信長の草履を懐に入れて温めたことで信長が感動して出世街道の一歩を歩むことになりました。
石田三成は、自分が働くお寺に来た豊臣秀吉がお茶を入れてくれるように頼まれると、1杯目に大きなお茶碗にいっぱい入ったぬるめのお茶を出し、秀吉は一気に飲んでもう1杯欲しいと頼まれ、2杯目にはやや小さくなったお茶碗で1杯目のお茶よりも少し熱めのお茶を出し、もう一度秀吉がお茶を出すように頼むと、小さな茶碗に入った熱いお茶を出しました。
三成は喉が渇いている秀吉に対して、飲みやすい熱さにしながらも多めのお茶を出し、その後は徐々に本来のお茶のおいしさを味わってもらおうとしたおもてなしを行い、秀吉は感動して自分の家来にしました。
このように、人は感動させることで自分にプラスになることが多いですが、それも最初は見返りを求めた行動ではなく、自然と相手の人が喜ぶと思って起こした行動に人は感動します。
相手の人がどうしたら喜んでもらえるかを考えて行動することは実は簡単なことです。
相手の気持ちになったらどうやったら喜ぶだろうかと自分の立場になって考えた時に人は喜びます。
つまりは自分がしてほしいことを相手にしてあげることが一番良いことなのですが、無理に相手を喜ばせようと必死になるとかえって相手が気を遣ってしまう可能性も出てきます。
自然な流れの中で、無償で相手を喜ばせようとすることが良いのではと思います。
見返りを求めた考えで行動してしまうと、仮に相手が感動しなかったときに「せっかくここまで頑張って取り組んだのに…」と考えてしまい、かえって不機嫌な態度をとってしまう可能性もあります。
ですから、見返りを求めない無償の気持ちで相手に接することが大切です。
相手がどうしたら喜ぶかの具体例ですが、簡単なものから挙げていくと、誕生日にはお祝いメールやLINEを送るといったその人の特別だと思っている日を大事にしてあげたり、帰り道を一緒に帰るなどごく普通なことをしていくことも喜びます。
相手の誘いにのってあげたり、一緒に遊ぶでもかまいません。
もっと簡単なことからであれば、話を聞いてあげることだけでも十分にその効果があります。
自分の話を聞いてほしいと思っている人は世界中でたくさんいると思いますし、話を聞いて共感していくだけでも相手の人からしたら喜ぶことなのです。
自分がごく当たり前だと思っていることでも、相手にとっては有難いと思ったり感動したりするものであったりするので、それを当たり前のように行動すればいいだけです。
おもてなし、と聞くとどうしても重い受け止め方をする人がいますが、日本人の私たちにとっては普段の道徳心で接することでかなりのおもてなしを行っていると思いますよ。
また、おもてなしをしなければならないと義務感を背負えば背負うほどそれはおもてなしにはなりません。
自然に相手が喜んでくれるであろうことで簡単にできることを考えるからこそ実行しやすく、簡単に行うからこそ「ここまでやったのに」と思うこともなくなります。
要は相手が感動しようがしまいが、相手のことを思って行動してみる気持ちが大事であって、感動させようと必死になりすぎて怖くなり、行動しなくなることが一番悲しいことです。
自然な流れの中で相手のことを思った行動は決してマイナスにはなりませんし、勇気をもって行動することが大切だと私は思います。
相手が喜ぶとこちらも嬉しくなることがいいですね。
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